今回の日記は全体的にマニアックです!(笑)
お仕事休み。まずは渋谷文化村の「レオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想」を見に行ってきました。
同僚が「なんか弟子筋とか同時代とかの作品ばっかりでいまいちだった」と言っていたので、さほど期待していなかったのですが、さ、サライの作品がたくさんあるじゃないか!!
サライというのはレオナルドの「愛弟子」で、まあぶっちゃけホモ疑惑があるほど愛されていた弟子なんですが。
家に帰ってきて「レオナルドまじレオナルド」と月妹に語った本が出てきたので、ちょっと問題の個所を抜粋してみます。
講談社学術文庫 田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ』より。
太字加工は勿論かんによるものですが、文章そのものは原文ママですよ。ええ。
ココカラ----------
レオナルドは1490年10歳になるジャン・ジャコモなる少年を
深く愛するようになっていた。この少年のためにレオナルドは新しい洋服や靴ばかりではなく、指輪や首飾り、銀糸織の上衣などを買ってやっている。その行為はちょうど
恋愛中の男が女に尽くしていることによく似ている(中略)
レオナルドはその少年をサライと呼んだ。ルイジ・プルチの叙事詩「モルガンテ」に由来するこの名は
悪魔の同義語として使われているのだ。(81ページ)
泥棒、嘘つき、頑固者、大飯ぐらいときめつけるその罵倒の言葉は、いたずらな子供に対する親の叱声と似通っているように、逃げようとする
気紛れな「愛人」を引きとめようとする気持ちと裏腹の声だったのではあるまいか。
このサライがレオナルドの生活に登場してから、レオナルドの手記はにわかに活気を帯びたように見える(中略)一人の「愛する子」を身近に得たことが、自分は何ものかであらねばならないという自覚を与えたのではないか(151ページ)
------------ココマデ
お前は何を言っているんだ講談社学術文庫ォー!!(笑)
もう・・・初見の時の私の衝撃をお察しくださいww
でも最後の「自分は何ものかであらねばならない」って一文はきれいだな。いつか使ってみたい。
ちょっと話がそれかけましたが、サライとはそういう人物です。んで、レオナルドの弟子の作品はメルツィの作品ばっかりが脚光を浴びていて、おまけに小説なんかではサライは盗みや博打で遊びまわり、レオナルドを困らせる(そしてメルツィをイラつかせるw)という立ち位置のことが多いので。
サライ普通に絵がうまいんだけど!とびっくり仰天。展覧会一押しの「ほつれ髪の女(レオナルド肉筆)」よりも、そっちのほうに目が行ってしまいましてよ。
サライの筆による「裸のモナリザ」は、どう見てもサライ自身がモデルで・・・サライがいったいどんな心境で乳房のある自分自身を描いたのかと考えるだけでゴハン3杯はいけます。
あと、自宅で図録を見ていて気づいたんだけど、ひょっとしてサライの絵ってだいたいレオナルドの死後の作品じゃないですか?
レオナルド生存中は絵の勉強はしてて、でもレオナルドが求める「小悪魔ちゃん」を演じ続けてたとかだったら燃え死にます。萌えじゃなくて燃え。
あっ、そうそう、数年前ウフィツィに行ったときはよそへ貸出し中だったラファエロの「ヒワの聖母」も見れました。
こんなところでみられるとは思わなかったので、こっちもびっくり。
そしてそのあとは月妹の日記にもあったのですが、コンサートに行ってきました。
生協のチラシで1812とシェヘラザードをやると聞いて、「俺得にもほどがあんだろ・・・!」と、同行者も決まってないのにチケット2枚購入w
約2か月前からわくてかわくてかしてましたww
結果として・・・満足度は70%ぐらいかな。
なんつっか、よくも悪くも「日本のバンドだな」という感じでした(マニアックな話の上、あくまで「自論」なので、詳しくは後述)
いや、バイオリンソロと指揮者は外人さんだったんですけど。
チャイコフスキー「バイオリン協奏曲」のソロを聞いている間、「あれっ、この人シェヘラのソロほんとにできるの?なんかこういうの(協奏曲)向けの人のような気がするけど・・・」と思ったら、案の定でした。ぐぬぬ・・・妖艶さが足りない!
妖艶(情感タップリ)な演奏の例
なんかもう5回くらいは日記で言ったような気がしますが。
シェヘラザードは有名なのは3楽章ですが、2楽章が一番大好きです。
(3楽章はCMでよく使われるので、聞けば「ああ、これかぁ~」ってなると思います)
妖艶な語り部シェラザードのテーマで物語を予兆させ、冒険のワクワク感→海原の大冒険→ハイライト。
たった10分の中にアラビアンナイトのすべてが凝縮されていると言っても過言ではにゃーよ!
あと、よりマニアックな話をすると、俺の嫁のおいしすぎる1stホルンソロが緊張しまくってて、演奏中に苦笑してしまった。
まあこの空気は緊張するよね・・・(動画だと9:50~11:10くらいまで)
ちなみに10:54はトランペットではなくて、これもホルンソロ(3rd)。ゲシュトップという、ラッパ部分奥まで手を突っ込んで、ワザと音を割れさせる技法なんだけど、音程をあてるのがめちゃくちゃ難しい。
(よいこのみんなは「ゲシュトップフト」でうぃき検索しちゃだめだぞ!頭がパーンてなるぞ!ww)
1stソロより3rdソロのほうが緊張すると思うんだけど・・・そうでもなかったな。
評論家でもないくせにいきなり批判めいたことお書いてしまいましたが、もちろんプロなだけあって標準以上の演奏でしたし、シェヘラザードほどの大曲をあのレベルで演奏できるのはやっぱりすごいと思います。ファゴットなんかのソロはレベル高かったですよ。それだけに肝心のバイオリンソロが今一つだったのが残念でして。
あと、自分がいつも聞いているCDがカラヤン指揮のもので、初めて聞いた生演奏がN響だったので、自分の中でこの曲のハードルが異様に高くなっていることは否めないw
1812も熱い演奏でした!熱すぎて序盤で1stバイオリンの弦がはじけ飛んだw
緊急時にはそうするって話には聞いてたけど、バイオリン交換するとこ初めて見たわww
以下、「日本のバンド」についての自論です。
そもそも日本・・・というか、東洋に於いて、芸能の極意とは「型にはめること」なのではないかと思うのです。
一番顕著なのは日舞とバレエ。日舞は型どおりに踊るのが大事で、バレエは型はもちろん大事だけど、それよりも感情やキャラクターを表現するほうが大事。
(参考になるかわかりませんが
バレエのキトリ置いときますね)
なんでこんな差が出たかというと、私が見かけ次第盗泉に突き落としたいと思っている儒者センセイ方が、楽器や舞を修身のための教養として設定したためではないかと。
そのため音楽などで「表現」をしようとするのはむしろ御法度。
中島敦の『弟子』にも、子路が孔子に「お前の琴は激しすぎる、お前の心が激しすぎる証拠だ」というようなシーンがあります。
もちろん民間レベルならまた話は別ですよ。阿波踊りなんかは逆にいろいろ弾けてる例ですよねw
でも基本的に、日本の音楽はやっぱり型を守っていて、表現を冒険だと思ってしまう部分があるような気がしてならないのです。
スーパー歌舞伎とか、女子十二楽坊とか、伝統芸能が画期的なことを始めたのもここ数十年の間という印象ですよね。
逆に西洋に於いて、音楽とは表現そのもの。ベートーベンもショスタコーヴィチも、魂の苦痛と開放を、歌詞のない音楽に仮託して表現しました。
西洋人にとって音楽とは時に喜びであり、時に悲しみであり、時に祈りでもありました。
フィンランディアのように、人々を鼓舞するための音楽もあれば、レクイエムのような鎮魂の音楽もあります。
(余談ですがかんは「ハーメルンのバイオリン弾き」で弱虫な亡国の王子トロンがフィンランディアを聞き、奮起して戦いに身を投じるシーンでめちゃくちゃ感動しました)
もちろんそれによって東西に優劣があるなどとは言いませんが、東洋人が西洋のクラシックを演奏すると、どうしてもおとなしいものになりがちなのです。
グランディオーソと楽譜に書かれていればグランディオーソ(壮大)に演奏しますが、それ以上の熱情を込めるのが難しい、という感じでしょうか。
ただ、日本人には「もうみんな飛び込みましたよ!」のジョークに代表されるがごとく、周りにノせられやすいという特徴もあります(笑)
それゆえ、ガンガン自己表現してくる西洋のバンド以上に、指揮者の表現力が重要になってまいります。
今回のコンサートは指揮者も結構おとなしかったかなぁと・・・最後はぴょんよんジャンプしてがんばっていらっしゃいましたが(笑)
・・・なんかうまくまとめられませんでした。何が言いたいかっていうと、クラシックは堅苦しい教養ではないのだから、もっとみんな気軽にクラシックを楽しんでくれたらいいなってことです。